馬背塚古墳 (飯田古墳群)
馬背塚古墳(ませづかこふん)
区 分:史跡(平成28年10月3日 国指定「飯田古墳群」)
所在地:飯田市上川路284 他
所有者:市・個人
時 代:古墳時代(6世紀末)
構 造:前方後円墳
規模等:
墳丘測量図(水色線は墳丘推定線・破線は周溝推定線)
○墳丘;全長46.4m(後円部径19m 前方部幅20.8m 推定50m以上)・主軸N54°W(※1)
○埋葬施設;
後円部(西側)横穴式石室(※2) 全長11.7m (玄室〈※3〉長8.4m 幅奥から1.9~2.1~2.0m 高さ2.7m、羨道〈※3〉長3.3m 幅1.86m 高さ1.4m)・主軸N46°E
前方部(東側)横穴式石室 全長11.9m (玄室長6.4m 幅奥から3.0~3.3~3.4m 高さ3.3m、羨道長5.5m 幅2.0m 高さ1.6m)・主軸N31°E
- ※1 遺構の中心線が、北(North)から54度西(West)へ傾いているという意味です。東へ傾く時はW(East)を用います。
- ※2 竪穴式石室:古墳時代の石室には、縦方向に掘られ、蓋(ふた)をした竪穴式石室と、横穴を設けて出入り口とした横穴式石室があります。5世紀代は竪穴式石室、6世紀以降は横穴式石室が用いられました。竪穴式石室が個人を埋葬したのに対し、横穴式石室は入口を開ければ数代にわたり埋葬できます。
- ※3 玄室・羨道:石室のうち遺体を安置する空間を玄室(げんしつ)といい、玄室へ通ずる通路を羨道(せんどう・えんどう)といいます。
概 要:
6世紀末(あるいは7世紀初め)に築造された、飯田古墳群で最後に造られた前方後円墳です。後円部(西側)と前方部(東側)に、形状の異なる横穴式石室が造られていることが特徴です。
墳丘は北側から伸びる尾根の地形を利用して築造されており、この地域の前方後円墳の最終的なあり方を示しています。
墳丘は水田などによって削られて小さくなっていますが、周囲の発掘調査により、現在よりも規模が大きかったことがわかっています。
左側石室が後円部、右側石室が前方部
後円部の石室は、玄室と羨道の区別があいまいな細長い形状の無袖式といわれる石室で、東海地方との関連が指摘されています。
一方、前方部の石室は、玄室と羨道を明確に区別した畿内型と呼ばれる石室で、奈良県の石舞台古墳と同じタイプになります。とても大きな石材を用いており、松尾のおかん塚古墳とともに県内屈指の規模を誇る雄大な石室です。
後円部石室 入口から奥壁まで、壁が一直線で羨道と玄室の差がありません。 ※現在入り口部分の崩落のため見学を制限しています。
前方部石室 奥壁側 巨石を積み上げた高い天井に圧倒されます。
前方部石室 玄室奥側から羨道を見ると、そこは黄泉の国から現世を除くかのような世界です。
(撮影者:おぐ 様)
出土遺物
なし
竜丘地区の様相
竜丘地区は、天竜川支流の毛賀沢(けがさわ)川から久米(くめ)川までの間ですが、新川(しんかわ)を境に南北のグループに分けられます。
4世紀から5世紀前半にかけては、葺石を貼るものもありますが、弥生時代以来の方形周溝墓(※4)につながる小型の方墳が造られて続けています。
5世紀中頃に兼清塚古墳が造られたと考えられており、兼清塚古墳の後には丸山古墳、大塚古墳と5世紀後半まで造られます。小河川を挟んで兼清塚古墳の南側では、兼清塚古墳にやや遅れて内山塚古墳(円墳)、鏡塚古墳・鎧塚古墳(帆立貝形古墳)、塚原二子塚古墳などが築かれ、塚原古墳群を形成します。なお、発掘調査事例が多くないことも考慮しなければなりませんが、竜丘地区から馬の埋葬事例は確認されていません。
6世紀になると、兼清塚古墳の一群は途絶えますが、塚原二子塚古墳の前方後円墳の系譜は金山二子塚古墳と続き、やや距離は離れますが、6世紀中頃の御猿堂古墳、6世紀終末の馬背塚古墳へと続いていきます。
一方、新川の北側では5世紀後半に権現堂1号古墳が築かれ、しばしの空白があり6世紀後半に塚越1号古墳が築かれています。
6世紀終末の馬背塚古墳を最後に、飯田下伊那では前方後円墳は築かれていません。
竜丘地区は、飯田古墳群の中でも最も古墳が密集する地区で、5世紀中頃から6世紀末まで前方後円墳の系譜が途絶えることなく続きます。飯田古墳群は、最終的に竜丘地区に集約していく様子がうかがえます。横穴式石室の特徴からみれば、東海地方と畿内との関わりが強い地域であったと考えられます。
その後の7世紀の様相は不明ですが、竜丘地区南部の上川路には、白鳳時代(※5)の瓦が出土している頃から、寺院が建立されたと考えられています。竜丘地区は古墳築造が終わったも、仏教文化を受け入れることで地域を治めていた集団が存続したと考えられています。
- ※4 方形周溝墓:周囲に四角い溝を掘った墓をいいます。弥生時代以来の方形周溝墓は、古墳に比べ盛土の高さが低いことが特徴の一つです。
- ※5 白鳳時代:飛鳥時代と奈良時代の間、645年から710年までのことをいいますが、年代については諸説あります。仏教文化が栄えた時代です。
書籍等案内
- 史跡 飯田古墳群
- 『飯田は古墳の博物館 古墳ガイドブック』 飯田市上郷考古博物館 2017
- 国指定史跡飯田古墳群パンフレット (PDFファイル/7.29MB)
- 特集国指定史跡飯田古墳群(広報いいだ平成29年1月1日号より部分転載) (PDFファイル/12.71MB)
- 『飯田における古墳の出現と展開』 飯田市教育委員会 2007
- 『飯田古墳群』 飯田市教育委員会 2012
- 『飯田古墳群 -論考編-』 飯田市教育委員会 2013
- 『黄金の世紀』 飯田市美術博物館 2011
- 『下伊那史』第二巻 下伊那誌編纂会 1955
アクセス・見学
- 三遠南信自動車天龍峡IC 車5分、飯田市考古博物館 車17分
- 国道151号の切り通し西側の農道を上がりますが、軽自動車向きで、大型車には不向きです。
- 農道を上がった先の空き地をご利用ください。
- JR飯田線「川路」駅 徒歩19分・「時又」駅 徒歩20分
- 信南交通 市民バス 久堅線「駒沢橋」 徒歩10分・「嶋」徒歩13分
注意事項:
- 所有者・近隣の方へご配慮をお願いします。
- 後円部(西側)石室は一部崩落しており、現在は石室内への立ち入りを禁止しています。
- 石室は古代の土木技術で造られており、現在の技術で安全が確保されているものではありません。特に地震や大雨の後は状況をよく確認してください。