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飯沼天神塚(雲彩寺)古墳 (飯田古墳群)

ページID:0049733 印刷用ページを表示する 掲載日:2022年5月27日更新

飯沼天神塚(雲彩寺)古墳(いいぬまてんじんづか(うんさいじ)こふん)

区 分:史跡(平成28年10月3日 国指定「飯田古墳群」)

所在地:飯田市上郷飯沼3334-1

所有者:雲彩寺

時 代:古墳時代(6世紀前半)

構 造:前方後円墳

規模等:

墳丘測量図 墳丘測量図(水色線は墳丘推定線・破線は周溝推定線) 

○墳丘;全長74.5m (後円部径約31.0m 前方部幅推定39.4m)・主軸N22°W(※1)

○埋葬施設;横穴式石室(※2) 全長12.6m以上〈玄室(※3)長4.6m以上 幅約2.3m 高さ約1.6m、羨道(※3)8m以上 幅0.6~0.8m 高さ0.8m〉・主軸N105°E

  • ※1 遺構の中心線が、北(North)から22度西(West)へ傾いているという意味です。東へ傾く時はE(East)を用います。
  • ※2 横穴式石室:古墳時代の石室には、縦方向に掘られ、蓋(ふた)をした竪穴式石室と、横穴を設けて出入り口とした横穴式石室があります。5世紀代は竪穴式石室、6世紀以降は横穴式石室が用いられました。竪穴式石室が個人を埋葬したのに対し、横穴式石室は入口を開ければ数代にわたり埋葬できます。
  • ※3 玄室・羨道:石室のうち遺体を安置する空間を玄室(げんしつ)といい、玄室へ通ずる通路を羨道(せんどう・えんどう)といいます。

概 要:

上郷地域で現存する唯一の前方後円墳で、飯田下伊那地方では最大規模の古墳です。

ふんきゅう 左側が後円部、右側が前方部

ふんきゅう 右側が前方部、左側が後円部

こうえんぶ 前方部からみた後円部

埋葬施設である横穴式石室は、川原石を多く用いた小型の石材で造られており、狭く長い羨道部に特徴があります。これに類似する石室は飯田下伊那で確認されていませんが、群馬県に似た石室があることが指摘されています。

寛政5年(1793)に寺院を拡張する際、横穴式石室の奥壁が崩されて開口したことが、「雲彩寺略記」に記されています。現在の開口部は本来は奥壁の部分で、本来の入口は閉じられたままです。

せきしつ

写真中央の狭くなっている場所が、玄室と羨道の境となる部分で、写真手前の広い方が玄室です。天井石が右側に下がっており、右壁の積み方が他と異なっていますが、かつて石室の一部が崩落したため、修復したことによります。

いりぐち 石室開口部

出土遺物

銅鏡(四鈴鏡(※4)1・神獣鏡(※5)片1)・武具(単鳳環頭柄頭(※6)1・鉄鏃1)・馬具(馬鈴2・鈴2・杏葉(※7)4・雲珠(※8)2)、装身具(金環(※9)1・玉類11)、須恵器(※10)(杯2・平瓶(※11)1)

寛政5年(1793)に出土したもので、市岡智寛(いちおかともひろ ※12)が記した『雲彩寺所蔵古物之図』に図示されています。現在それらの大半は散逸(さんいつ)してしまいましたが、馬鈴2個と金環1個が残っており、飯田市考古博物館で展示しています。

馬鈴 馬鈴

  • ※4 四鈴鏡(しれいきょう):縁に鈴を四つつけた鏡です。
  • ※5 神獣鏡(しんじゅうきょう):空想上の霊獣と神像が彫られた鏡です。
  • ※6 単鳳環頭柄頭(たんほうかんとうつかがしら):柄頭は刀剣の柄の端(グリップエンド)に環状の金具を付けたもので、環の中に1羽の鳳凰(想像上の霊鳥)を配置したデザインです。金属製で金メッキなどが施されます。
  • ※7 杏葉(ぎょうよう):馬具に吊下げる飾り金具です。
  • ※8 雲珠(うず):複数の革紐が交わる場所(辻)で革紐を留める金具で、中央が丸く高くなっています。
  • ※9 金環(きんかん):直径1~3cm程度の金属製の耳飾りで、銅製で金メッキを施したものです。銀メッキを施したものを銀環といいます。
  • ※10 須恵器(すえき):古墳時代に朝鮮半島から伝わった焼き物で、ロクロで形を作り高温の窯で焼いたものです。
  • ※11 平瓶(ひらか):やや浅い容器で中央から偏った場所に口を設けており、酒瓶と考えられています。
  • ※12 市岡智寛(いちおかともひろ):江戸時代の博物学者で、元文4年(1739)に美濃に生まれ、後に千村飯田役所に勤めます。食べられる茸と食べられない茸を区分した『伊奈郡菌部(いなぐんきんぶ)』は全国に知られ、後のキノコ図鑑に大きな影響を与えました。

上郷地域の様相

上郷地区には、弥生時代後期から続く集落はありますが、4世紀から5世紀前半の確実な古墳は確認されていません。

地区内では、5世紀中頃に古墳が築造され始めます。5世紀後半には溝口の塚古墳(前方後円墳 消滅)が築かれ、多数の武具とともに、40歳前後の成人男性の人骨が出土しており、この人骨には渡来系(とらいけい ※13)の特徴がありました。溝口の塚古墳周辺の宮垣外高屋遺跡の周溝墓(※14)・土坑からは、馬を埋葬した穴が見つかっており、飯田古墳群の出現には、馬と渡来系の人たちが関わっていることがわかります。

溝口の塚の後に、番神塚(ばんしんづか)古墳(前方後円墳)が築かれたと考えられますが、番神塚古墳は消滅しており、詳しいことはわかりません。

6世紀前半には、飯沼天神塚古墳が築かれます。

しかし、本古墳の後に続く前方後円墳は確認されておらず、前方後円墳が造られ続ける松尾・竜丘地区と比べれば勢力が衰えたと考えられます。7世紀以降は円墳も造られなくなりますが、古墳での祭祀は8世紀まで続けられていたと考えられます。

なお、群馬県渋川市の金井東裏遺跡(※15)からは、伊那谷で幼少期を過ごして群馬県へ移り住んだ可能性のある人骨が出土しています。

群馬県とは、後の律令時代(※16)の東山道の沿線地域という共通点がありますが、古墳時代にも東山道の前身となる幹線道路を通じて交流があったと考えられています。

  • ※13 渡来系:4世紀から7世紀にかけて、中国大陸や朝鮮半島から日本列島へ移住した人を渡来人といい、進んだ技術や政治体制が導入されました。
  • ※14 周溝墓:棺の周りに溝を掘った墓で、元々は盛土があったと考えられています。溝は墓を区画したり、大きく見せたり、墳丘の盛り土の材料となったりします。
  • ※15 金井東裏遺跡(外部リンク):6世紀初頭の榛名山(はるなさん)の噴火によって埋没した遺跡で、古墳時代の人骨4体が火山堆積物に埋もれており、そのうちの1体は冑(よろい)を着けたままの姿だったことで知られています。人骨を調べたところ、冑を着けた人骨は、渡来系の特徴を持ち、日常的に馬に乗っていた可能性が高いことがわかりました。また、成長期を群馬県でなく、中部日本より西側の地域で過ごしたことがわかりました。歯に富山県から岡山県の地質と共通した成分が含まれていたからです。考古学の成果と合わせると、その地域は伊那谷であった可能性が指摘されています。
  • ※16 律令時代:7世紀後半から10世紀頃までの、律令(古代国家の法律)によって国が人々を支配していた時代をいいます。およそ奈良時代から平安時代前半に該当します。

書籍等案内:

アクセス・見学・注意事項:

  • JR飯田線「下山村」駅 徒歩16分、「伊那上郷」駅 徒歩18分
  • 信南交通 市内循環線「加賀沢橋」「城東」 徒歩11分
  • お寺へ声をかけて下さい。また、お寺や檀家の行事・法事等の妨げにならないようご配慮をお願いします。

あんないず 「高屋」信号交差点の西側10m辺りを曲がります(画面左下が北)。

いりぐち 飯田市考古博物館からは「高屋」信号交差点の停止線の先が出入り口

周辺の古墳:

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