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菱田春草筆「雨中美人(うちゅうびじん)」(未完成)

ページID:0064418 印刷用ページを表示する 掲載日:2021年9月22日更新

菱田春草筆「雨中美人」(ひしだしゅんそうひつ うちゅうびじん) 

 明治時代、日本画の発展に力を尽くした飯田出身の画家、菱田春草の未完成作品です。

区 分:飯田市有形文化財(令和3年9月17日 指定) 第105号

所在地:飯田市美術博物館

所有者:飯田市

年 代:明治43年(1910)9月

形状:屏風六曲一双(六折の屏風が一対)

法量(寸法):右隻 縦163.8cm 横365.2cm、左隻 縦164.2cm 横365.5cm

その他:落款なし、印章なし

 

うちゅうびじん させき
雨中美人 左隻
うちゅうびじん うせき
雨中美人 右隻

概 要:

「雨中美人」は、春草が亡くなる前年の明治43年(1910)9月に、第4回文部省美術展覧会に出品するため描き始めたものの、途中で中断した未完成作品です。その代わりに出品されたのが有名な「黒き猫」です。

春草の直系の子孫に伝わり、平成27年(2015)に飯田市美術博物館の調査により発見され、平成29年3月に所有者から寄贈を受けました。発見時は屏風からはがした状態でしたが、平成30年3月に屏風の姿に復元しました。

 この絵については、作品に関連するスケッチや下図、家族の回想など記録類はあったものの、未完成作品の存在は知られていませんでした。

 作品は六曲一双(六折の屏風が一対)で、画面右側から左側に向かい、木立の中を蛇の目傘(じゃのめがさ)をさした和装の女性達が歩みを進めている情景を題材にしています。墨、木炭、鉛筆で下描きをして、ひとりの女性の顔と着物を着彩しはじめた段階で筆を止めています。女性が会話をしながら蛇の目傘を差して歩く情景ですが、顔が見えるのは1人だけで、他の5人の顔は傘に隠れています。和装のたたずまいと蛇の目傘の円形の模様が印象的に6つ並び、人物を主題にした美人画というよりは、日本的なモチーフを構成的に配置して、日本美を象徴的に表現しようとしたと思える作品です。

なお、間に合わせで制作し、展覧会に出品した「黒き猫」については、謙遜もあるでしょうが、自らの書簡では、致し方なく「愚作」「駄作」の出品となったという意味合いで記しており、「雨中美人」の中断はとても心残りであったようです。再度、出品し直そうという思いがあったかどうかはわかりませんが、翌年、春草はこの世を去っており、第5回文展への出品が叶うことはありませんでした。

 

「雨中美人」が有する価値

(1)「落葉」と「黒き猫」の間に位置づく作品

菱田春草の画業において、文部省美術展覧会(以下、「文展」とする)に出品した最晩年の4年間(明治40年から43年)は非常に重要な時期です。「賢首菩薩」、「落葉」、「黒き猫」の3点はこの時期の作品であり、いずれも春草の代表作として国の重要文化財に指定されています。

作風の変遷から見れば、画法の研究を進める中で、ヨーロッパ等への渡航を機に西洋美術を実見する機会を得て、和洋の技法上の違いにこだわることなく自らの造型性を追求している段階で、現在の春草の評価を語る上で欠くことのできない時期です。

「雨中美人」はこの時期に取り組まれた作品であり、念願の審査員を務める文展に出品すべく制作を始めたものの、着物の色が不満で中断したといわれます。

「雨中美人」の右隻に描かれた4名の婦人は立ち止まっているわけではなく、躍動感よりも緩やかな動きが描かれ、静かな動作の中で美を表現しようとしています。また、和傘の円形が印象的に散りばめられ、幾何学的な形態を意識して見せようともしています。更に人物の表情をほとんど見せないことを考えると、単なる美人画を描こうとしたわけではなく、和装の女性や和傘、爪皮(つまかわ[撥ねよけのカバー])を付けた下駄など、和風素材による装飾美とそれらからなる空間を象徴的に描こうとしていたとみられます。

「雨中美人」は未完成ですが、「賢首菩薩」「落葉」「黒き猫」と共通した作風で、「落葉」と「黒き猫」の間に位置づくとともに、春草の作風が装飾的傾向に移った時期の人物画を垣間見ることのできる作品として近代美術史上重要です。

 

(2)「スケッチ」「下絵」を通して制作過程を追える作品

「雨中美人」は未完成であるため、完成作では見ることのできない制作途中を観察できる資料として菱田春草に関わる研究上重要な作品で、特に下描きの様子や着物の彩色過程を確認することができます。

また、この作品の制作に関わったスケッチが16枚と下絵3枚(いずれも個人蔵)が残されており、春草の制作過程を追うことも可能です。春草の夫人の菱田千代や長男の春夫、春草の妹の青山準の回想によれば、モデルを務めたのは千代夫人で、真夏の暑い時期に様々なポーズを取り脳貧血で倒れそうになったが協力したというエピソードが伝わっています。

春草の作品の中でも、最も親族の証言の多い作品で、「落葉」で評判を得て、更なる飛躍を目指し、家族も関わりながら制作を進めた様子がうかがえます。

これは想像でしかありませんが、「雨中美人」の制作時が、春草の一家にとって最も幸福に満ちた時だったかもしれません。

うちゅうびじん させき いいだしびじゅつはくぶつかんによるかきおこし
「雨中美人」左隻 飯田市美術博物館による書き起こし
うちゅうびじん うせき いいだしびじゅつはくぶつかんによるかきおこし
「雨中美人」右隻 飯田市美術博物館による書き起こし

春草の画風の変遷

1 東京美術学校時代 (明治23~28年〈1890~1895〉・16~20歳)

狩野派・円山四条派・大和絵や西洋絵画の写実法を学び、それらを用いて描いていた頃です。指導者岡倉天心と、それぞれの段階で学んでいた画風に影響を受けています。

代表作:「秋景山水」(東京藝術大学蔵) 「牧童」(飯田市美術博物館蔵) 倉時代闘牛図」(飯田市有形文化財・飯田市美術博物館蔵) 武具の図(飯田市有形文化財・春草会蔵)

2 日本絵画協会(※10)時代 (明治29~31年〈1896~1898〉・21~23歳頃)

東京美術学校を卒業し、日本絵画協会(※10)に参加して制作をしていた時代で、輪郭線を重視しつつ、空間性や写実性を意識した制作姿勢に特徴がみられます。

※10 日本絵画協会:明治時代に存在した日本の美術家の団体です。

代表作:「寡婦と孤児」「水鏡」(共に東京藝術大学蔵) 「拈華微笑」(東京国立博物館蔵) 

3 日本美術院(※11)時代前期 (明治31~35年〈1898~1902〉・23~27歳頃)

日本美術院(※11)結成後、西洋絵画の空間性や写実性を日本画に導入しようとし始めていた時期です。輪郭線を廃止して色彩のみで画面を構成しようとしています。その画風は「朦朧体」と批判されました。この時期には空間性の造成が追求されています。

※11 日本美術院:明治31年(1898)、東京美術学校を辞めた岡倉天心・菱田春草・横山大観・下村観山らが創立した美術団体です。

代表作:「秋景」(島根県立美術館蔵) 「菊慈童」(長野県宝・飯田市美術博物館蔵) 「釣帰」(山種美術館蔵) 「白き猫」(飯田市有形文化財・春草会蔵)

4 日本美術院時代後期 (明治35~37年〈1902~1904〉・27~28歳頃)

朦朧体の画風には、色彩の暗濁化がみられたことから、その純化(※12)を目指していく時期です。空間性よりも、描写対象の立体感や写実性を重視する姿勢がみられます。

※12 純化:混じり気のない状態にすることをいいます。

代表作:「王昭君」(重要文化財・善寶寺蔵) 「霊昭女」「鹿」(共に飯田市有形文化財・飯田市美術博物館蔵)

5 外遊(※13)・五浦(※14)時代 (明治37~41年〈1904~1908〉頃・28~33歳頃)

国内では朦朧体と批判されていた春草と横山大観は、明治37年、岡倉天心とともにアメリカ、続いてヨーロッパへ渡り、展覧会を開いています。春草らは海外では高く評価され、これにより国内での評価も上がってきました。

外遊(※13)によって色彩の重要性を再認識した春草は、朦朧体の空間性を求めつつも、澄んだ色彩による作画を試み、朦朧体画風を完成させます。また、色彩をより重視するようになり、点描表現なども試みています。

※13 外遊:研究や視察などを目的に海外を旅行することをいいます。

※14 五浦(いずら):茨城県北茨城市にある海岸の景勝地です。日本美術院は五浦に別荘を建てて、絵画部門はそちらへ移動しました。

代表作:夕の森」「夜桜」「帰樵」「富嶽」(共に飯田市有形文化財・飯田市美術博物館蔵) 「賢首菩薩」(重要文化財・東京国立近代美術館蔵)

6 代々木時代前期 (明治42年〈1909〉頃・34歳頃)

眼病を患った春草は、五浦から東京の代々木へ移り住みます。一時的に回復した春草は、空間性よりも「絵の面白味」を重視するようになり、輪郭線も復活して装飾的な作例を手がけるようになります。装飾性と写実性が一体となった画風に特徴がみられます。代表作「落葉」は、代々木の雑木林にイメージを得た作品です。

代表作:「秋木立」(東京国立近代美術館蔵) 「落葉(重要文化財・永青文庫蔵)

7 代々木時代後期 (明治43年〈1910〉頃・35歳頃)

「落葉」に増して装飾性が進み、背景の空間は空白のままで残されるようになります。また、装飾性と写実性が対置(※15)されるようになります。

※15 対置:対照的な位置に置くことをいいます。

代表作:「雀に鴉」(東京国立近代美術館蔵) 「かけす」(個人蔵) 「黒き猫」(重要文化財・永青文庫蔵) 「春秋」(飯田市有形文化財・飯田市美術博物館蔵)

8 最晩年期 (明治44年〈1911〉頃・36歳)

「黒き猫」以降、より装飾性に傾き、琳派(りんぱ ※16)の強い影響を受けるようになります。金地に濃い色彩の作例が多くなっていきます。

※16 琳派:桃山時代後期から近代まで活躍した芸術上の流派で、「風神雷神図」(俵屋宗達)などで知られます。背景に金銀箔を用いたり、大胆な構図、繰り返すパターンなどが特徴です。

代表作:「猫に鳥」(茨城県近代美術館蔵) 「早春」(個人蔵)

こちらもご覧ください

菱田春草の足跡 (飯田市のウェブサイト)

春草作品の紹介1 (飯田市美術博物館のウェブサイト)(外部リンク)

春草作品の見学 (日程・交通アクセス等 飯田市美術博物館のウェブサイト)(外部リンク)

春草作品の紹介2 (文化遺産オンライン 文化庁のウェブサイト) (外部リンク)

書籍 『菱田春草 鑑賞ガイド』 飯田市美術博物館

書籍は飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます